吉住健一 コロナとの闘い
1.パンデミック以前〜新感染症の発見から国内侵入〜
新宿区保健所は、感染症対応に関して日本有数の保健所といわれてきた組織である。
新宿区内には特定感染症指定医療機関も所在し、世界最大の乗降客数を持つターミナル駅を中心に往来する人口が多いためHIV検査センターを持ち、大規模な歓楽街を持つため梅毒等性病の検査、日本語学校が多く外国籍住民も多いことから結核健診も大量にこなしてきている。
そうした環境の中で日常業務に従事する保健師の経験は豊富で、多様な困難事例にも対処して疫学調査を実施してきた実績も持っている。
令和元年の年末に未知の感染症であるCOVID-19が確認され、国外での脅威が国内での脅威に変化するにつれ、住民は不安を持ち、情報や物資の不足は不満を募らせることとなり、過重なストレスからパニックに近い状況が発生した。
確認されたばかりの新たなウイルス感染症のため、感染経路やその危険度も不明であった。
保健所がなし得る感染抑制策は基本的な感染予防対策を啓発する以外に手段は無かったが、その時点における感染予防の考え方と後に「富岳(スパコン)」などで検証された感染予防効果には乖離があった。([例]マスク着用の効果について)
未知の感染症への恐怖心が住民の中に広がり、市販のマスクや消毒液が品薄となり、ドラッグストアには開店前から行列が出来た。
また、そうした物資の価格が高騰することを想定した買占めによる転売行為、感染予防物資の販売抑制(売り惜しみ)が発生した。
さらには、トイレットペーパーも不足するとの偽情報が流れ、トイレットペーパーも買占めの対象となり、自治体にはマスクや消毒液の他、トイレットペーパーの供給についての問い合わせや苦情が殺到した。
こうした住民の反応は、東京都による「ロックダウン発言」後に一時的な食糧の買占めとして繰り返された。
国外での感染拡大情報から、国内での感染者確認情報に変化するにつれ、住民からの感染症に対する問い合わせが急増していった。
保健所等の電話回線は繋がりにくくなり、体調が悪い住民が保健所に直接訪ねてくる状況が生まれた。
季節性の風邪や花粉症との区別がつかない中で、かかりつけの医療機関での診療も受けられない中で、未知のウイルスへの感染に対する恐怖心からパニック状態となっていった。
2.第2波の恐怖〜バッシングを繁華街との連携で乗り越えた時期〜
致死率の高さから多くの国民が自粛生活を受け入れていた第1波が過ぎて、落着きを取り戻した頃、水面下では新たな感染拡大の足音が忍び寄ってきていた。
無症状の患者も感染を引き起こす場合もあるということから、検査が行き届けば陽性者が増えていくことは自明の理だが、発見できた安堵よりも、増えたことに対する不安が先立ち、新宿バッシングの様な国会審議や記者会見、報道が続いた。
繁華街の当事者との対話のルートを作り、毎週夕方から勉強会を繰り返した。
毎回、医師や厚生労働省の医官等も出席し、最新の知識や情報を共有し、連携の仕方について協議を重ねた。
感染症対策アドバイザーを委嘱した国立感染症研究所の砂川先生と共に、感染者と感染者の行動を辿ることで飲食店での行為以上に、終業後の生活の中に感染の原因があるのではないかと推量する分析が出てきた。
次第に、飲食店や新宿区に対するバッシングの嵐は誰も責任を取らないままに通り過ぎてしまった。
若者の検査もさることながら、ハイリスク者が多く滞在している医療機関内や高齢者や障害者の福祉施設での徹底した検査などを通じて、最悪の事態は抑えることが出来たのがせめてもの救いであった。
3.第5波(R3年夏)最恐デルタ株の猛威〜酸素が足りない・・・〜
海外で流行の主流となったデルタ株が日本にも侵入した。
感染力も強力なうえに、重症化率が高く、死に至る病気であることを実感させられた変異株であった。
春に医療従事者から始まったワクチン接種が進むに連れて収束に向かって行ったが、その過程において救いたくても救えない患者が多発したことが、医療従事者や区役所職員の重荷となっていた。
その時に、訪問診療を中心に展開してきたヒロクリニックの英先生とSNSを通じて連絡を取り合うようになっていった。
医療現場の緊急事態を知らされ、区として酸素ボンベを大量購入し、訪問診療を実施しているクリニックに貸与する施策を始めた。
新宿区医師会の迫村先生や英先生が保健所や区内基幹病院、歯科医師、薬剤師、訪問看護ST、介護事業所等と新宿区新型コロナウイルス感染症対策医療介護福祉ネットワーク会議をパンデミック当初から定期的に開催してきてくれたため、意思疎通や情報共有が円滑に進み、介護事業所やヘルパーさんへの区独自のコロナ加算支給や、入院待機時の一時待機施設兼抗体治療を実施する施設を保健所内に開設、コロナ病棟を退出可能な患者を他区の病院に移送するシステムの構築など、第6波以降、入院待機による在宅死亡ゼロを達成する原動力となった。
4.見えないところで起きていたこと〜新宿ならではの取組み
新型コロナウイルス感染症への救世主として登場したコロナワクチンは、品薄の状況が続いたが接種開始から9月が過ぎる頃からは余裕が出始めた。
接種券の発行には、発注後1ヶ月強時間が必要なことから、早めに手配をし、時には自分で印刷会社を訪問し早期の納品求めたり、早期に納品可能な事業者の印刷物を調達し、発送時期を早めたりもした。
接種対象者接種対象波の拡大が急激に進む中で、政府発表のタイミングに間に合わせるために、四苦八苦した。
秋以降は、ワクチンの在庫もあり、住民以外への接種も可能となってきたため、ホームレス等への支援団体等を通じて呼びかけた。
数十人の接種が出来たが、情報が関東北部の件にも伝わり、在留資格の有無は分からない外国人の集団がバスをチャーターして接種会場に来場した。
職員の機転で、午前中は結核の検診を行い、昼食をとりに行っている間に接種券番号を入力して、午後に接種をしてもらった。
また、6月後半に厚生労働省から区内飲食店従業員向けに職域接種の実施をしないかと提案があり、すぐに申し込んだが、全国から職域接種の申請が殺到したため受付が休止してしまった。
受理されたのか不安な心境であったが、新宿区申請分は有効であると報告が来た。
読売巨人軍のオーナーから社会貢献として東京ドームでの集団接種を実行しないかと提案があり、文京区長と共に賛同した。
その後、港区も加わり3区合同接種を開始。伸び悩んでいた若年層も東京ドームでならと足を運んでもらえた。
5.コロナ禍後を見据えて〜新宿再起動、コロナ禍からの再生
感染力も不明、感染のメカニズムも不明、治療法も不明という状況から、対処療法が把握でき、ワクチンが開発され、治療薬も見え始めた状況となってきた。
ウイルス自体の変異も速いため、感染力が強くなった分、症状が軽く済む人も多くなってきた。
人間は人と会って、交流することが必要な生き物だと思う。
不要不急の外出は控えるという対策は、なるべく早く止めた方がよい。
急激なウイルスの毒性の高まりがあれば別であるが、感染予防を講じながら、積極的に人と会い、外に出ていくことを再開するときが来たと感じている。
保健所と連絡を密にしながら、感染状況や患者の状況、入院調整の状態を把握しながら社会経済活動の活性化策を推進していく。
具体的な方策は、新宿区長選挙の法定ビラ等に記載させていただいた。